2011年11月2日水曜日

2011明徳学園姉妹校訪問記

千葉明徳学園教諭 高橋孝夫

ネパールガンジで足止め ジュムラから歩いて4時間

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日本からネパール・ディリチョール村までは本当に遠い。成田~バンコク~カトマンズ~ネパールガンジ~ジュムラ~そこから徒歩約4時間かる。4回飛行機に乗らないと村に到達できない姉妹校って実はネパールではなく、南米アマゾンのどこかの奥地ではないかと思ってしまう。
雨期が完全に終わってないので雨が降ると、ネパールガンジ(以後ガンジ)からジュムラ行きが飛ばず、飛ぶまで2日間ガンジの空港で足止めを余儀なくされた。いつ飛ぶかも知れないのでずっと待機、待機、待機の連続だ。しかもガンジはネパール南部の町で署くて湿気がある。空港はクーラーもない。外にしストランらしきものがあるにはあるが、もちろん冷房はない。だからガンジの2日目にジュムラヘ飛ぴますと返事を貰った時の嬉しさは忘れられない。何故ならあと1日日程が延ぴるとカトマンズに戻らなくてはならなかったからだ。去年もここから先に進むことが出来ず、カトマンズに戻っていたのだ。
向かうメンバーは理事長(後に隊長と命名)築地先生(明徳中学校技術担当・画家)佐藤君(築地先生の教え子で現代美術を字ぶ27歳)北村先生(明徳土気保育園保育士)北村先生の愛娘、葵さん(明治大学山岳部21歳)ポビタさん(ネパール語通訳)と高橋(なぜか美術関係が多い)のメンバー7人である。
ガンジまで来ると大体メンバーの中で結東感が出来ていて、私達が操縦できる訳ではないのだが、何が何でも飛ぶぞという意思がみんなにみなぎっていた。はるばる日本からやってきてオメオメ引き返すわけにはいかない。ガンジからジュムラまでは大きな山をふたつ超えなければならない。山といってもヒマラヤ山系である。機体は18人程度しか乗れないプロペラ機で私は一番前の席に座った。操縦席が丸見えでパイロットはジーパン姿。腕に彫り込まれた刺青が妙に生々しい。去年の夏、航路は違うがルクラ行きプロペラ機が落ちて日本人1人を含む14人が亡くなっているのだが‥…。ほんとにこんな古くさいプロペラ機で大丈夫か?と本気で思った。
しかし機体は蝶が舞うようにふわりとヒマラヤの上を飛んだ。眼下に見えるのは青々しい森と河と田園だ。他には民家も見えない。後で聞いた話だが、そのとき築地先生も前の座席にいて、機体がジュムラの滑走路を一発で捉えたとき、刺青パイロットはガッツポーズをしたらしい。さすがネパール、刺青万歳だ。刺青ごときでパイロットの尊厳を疑った私が悲しい。

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ジュムラから歩いて4時間
泥土の中で住民はサンダルで涼しく歩いていた

np1103 ジュムラに足を踏み入れると乾燥したさわやかな高原の風が吹いている。ガンジとはまったく違う風景が展開している。標高2300メートル。ヒマラヤにやっと来たという実感が湧く。
しかしジュムラに着けたのはいいが、到着が遅かった。村まで車で行けるわけではなく、ここから徒歩で約4時間。ポーターに荷物は担いでもらうが、出発出来たのは3時半を過ぎていた。距離にすると約15キロほどだが、主に登り傾斜であることから夕暮れまでに着くのは絶望的だ。まあここまで来れたということでゆっくり歩を進める。ヒマラヤは山が急峻だ、屹立していると言ってもいい。ついでながら大麻草もそこら中に生えている。思わずポケットにではなく写真に収める。
雨期のせいで遵は水たまりが多く泥土状態で歩きづらい。一本道で分かりやすいが傍を流れる河の流れは急で、しかも雨期で水かさを増している。ガレ場には朋れないように石が敷き詰められている。ふと後ろから若いネパール女性が涼しい顔で歩いてくる。サンダル履きにハンドバッグを手に持ち、軽々と私達を追い抜いていく。水たまりもわけなく見事に避けて、しかも歩くスピードは変わらない。さすがだネパール。別にヒマラヤ登山をしているわけではないので、かれらにとってこの辺は普通にサンダルであることを悟った。かたや新調したばかりの私の登山靴はもう泥土でしどろもどろだ。
明日はジュムラで祭りがあるということで、村から歩いて下山してくる村人が多い。多くの村人と行き違った。その中でピカイチだったのは、雨で道路が寸断されているのにも関わらず、バイクで音楽を大音量で流しながら後ろに可愛い少女を乗せて下ってくる寅年と出会った。断っておくがここは山道だ。しかも所々石が崩れて、まことに通りにくい。そんな中少女を乗せて、音楽を流しながらバイクで降りてくるネパールの青年。やっぱりネパール、あっぱれだ。




着いたら姉妹校は休校だった


np1104 ディリチョール村の宿泊所に着いたのは昨夜の8時ころだっただろうか。完全に闇に包まれた中で、懐中電灯を照らし、泥土の海を悪戦苦闘してようやく研修所に着いた。到着しても電気は通じてないので、夕飯を済ませると早々に寝袋に転がりこんだ。
翌朝、宿泊所の外に出て初めて自分がどんなところに立っているかが分かった。思わず「絶景!」と叫んでしまった。峻険な山々が雲海の上に屹立している。何か身の引きしまる荘厳な風景だ。日本の富士山はどこか優美な曲線をしているが、ここのは稜線が短く、山々が峻厳なのだ。富士山が優美で女性的なら例えると弥勒菩薩だ。でもここの山並みは屹立しているだけに男性的で荒々しい、巨大な怒りの仏像ではないか?。厳格で近づきがたい山並みが永遠に続いている。飛行機を4回乗り継いだ意味がここで初めて分かった。
ではさっそくここから歩いて30分の姉妹校リンモクシャ校に行こうと思ったが、今日はお祭りのために休校だという。出鼻をくだかれてしまった。そうなのだ今はお祭りシーズン。こちらが甘かった。そういえば昨日多くの村人はジュムラのお祭りで下山していたのではないか。ネパールは太陰暦でお祭りなどの休日を決めるので日本では予想が出来ない。ということで私達は日がな一日優雅な洗濯日和となり、隊長は目の前の3800メートルの山に単独行にチャレンジした。この頃私達も完全にゆったりと流れるネパール時閻に慣れていた。考えてみると日本から姉妹校に出会うまでに成田から5日を要したことになる。



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ディリチョール村は再生可能エネルギーを採用していた



np1106 ディリチョール村の標高は2600メートルである。言わば高地である。8月の時期だと夜は10度前後に下がる。村の住人は水はヒマラヤから流れる水を飲んでいる。我々もガンジまではミネラルウォーターだつたが、ディリチョールに来てからは買うお店など近くにはないわけで、その水を飲まざるをえない。しかし飲むことによって体調をくずしたり、下痢をするということはなかった。多少小さなごみが混じることがあったがホースの出口にハンカチを結べば閻題はなかった。ヒマラヤ水はおいしい。
トイレも研修所に今までなかったらしいが新しくトイレがふたつ設皿されていた。ネバールのトイレは便器のそばにバケツと手楠が置いてあり、大きい方は手桶を使って左手で処理をする。インドなどに多いスタイルだ。だからトイレットペーパーは基本的に使わない(使う場合は便器に流すと詰まってしまうのでゴミ箱に捨てる)はじめはかなり抵抗があるかもしれない。されど慣れとはおそろしいもので、空気が乾燥しているからすぐに下着は乾き、これが憲外と快遍だ、と私は思う。右手で食べ、左手で処理するという両手の役割がはっきり区別されている。トイしの自然ウォシュレットを最初に発見したのは日本ではなくインドかも知れない。
ところで村の煮炊きはかまどを使っていた。かまどは鉄またはコンクリート製が多い。かまどの最初の燃やし方を見ていたが、うまいものですぐに薪に火がついた。ディリチョールに滞在していたとき民家に呼ぱれて朝食をごちそうになったが、かまどで作る炊きたてのネパール米はほんとうにおいしい。ジャガイモもかまどの脇において焼くのだが、甘みがあってホクホクしている。食事もいろりを囲んで食べるスタイルだ。食器はかまどの隣にきれいに並べられ、土で作った貯蔵庫も清潔感があった。冷蔵庫はないが朝、畑で取ってきた野菜やジャガイモをその場で調理してその日に食べる。実にまあ合理的だ。究極の自給自足だろう。
しかし、よくよく考えると日本でもおよそ江戸時代から昭和初期頃まで同じように薪を火に煥こし、かまどでご飯を作りいろりを囲んで食事を取っていた。そう考えるとその頃の日本の米で作ったご飯は、今より確実に美味しかったのかも知れない。
話は違うが、ディリチョール村の屋根を見上げるとほとんどの家の屋根に小さなソーラー発電パネルが殼置されていた。これにはおどろいた。大量生産・大量消費から最も距離をおいた究極の低炭素社会のディリチョール村にソーラーパネルが……。まさに異様な風景だった。この「尭全循環型自給自足村Jであるはずなのに何故これが?
隊長に尋ねたら2年前にはなかったという答え。ポビタさんに聞く「昔はディリチョール村も電気が通っていたのよ。でもね支配していたマオイストたちが去るときにここの発電所を破壊していったのよJマオイストたちもむごいことをしたものだ。彼らは基本的に農民の味方だったのではないか?破壌された発電所を再び作るとなれば莫大な貫用がかかる。政府にも手当するような予算はないのだろう。仕方なく村人たちは決して安くないソーラー発電を選ぶしか選択肢はなかったのではないか。ごちそうになった民家でもソーラーパネルが付けてあり、灯りをともしてもらつたがうっすら明るいくらいで、他の電化製品を付けると、とても対応出来ないくらいのひよわな明かりだった。



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