<ディリチョールは本当に遠い>
大げさではなく、本当に今回は命からがらディリチョール村に行き、帰ってきたとう言うのが、正直な実感
である。
というのは、飛行機の国内線の料金が3月から35%値上がりした。ところが、何故か確認できていない
が、ネパールガンジとジュムラ間の運賃だけが50%の値上げになった。そのことに村人が怒り、特に女性
が頑張り、ストライキを断行した。そのために、我々が乗ろうとした3月5日からストライキが始まり、ネパー
ルガンジ帰ってきた3月22日に1便飛んだとのこと。我々の行き帰りと運命を共にしたストライキであった。
そのために、行きも帰りもジープをチャーターせざるを得なかった。片道400キロ、21時間。トイレ休憩と
簡便な食事時間以外は、乗りっぱなしである。ドライバーは、一睡もしない。ところが、帰りの若いドライバー
は寝ながら運転をしていたようだ。私は寝ていたので後で聞かされたが、突如スピードが落ちてのろのろ寝
ながら運転をしているので、起きている同乗者が、頭から水をかけたり、耳元で話しかけたり、寝ないように
頑張っていたようだ。朝、お茶を飲みながら聞かされてゾッとしたが、知らぬが仏。
21時間の道のりの4時間足らずが舗装道路で、後は落石、砂利道、岩場、砂道、急カーブなど悪路の連
続であった。その上、インド製のジープはクッションが悪く、さらに床が穴だらけで排気ガスが充満する最悪
の21時間であった。往復42時間の地獄であった。唯一、ジュムラ近くの(車で1時間、徒歩5時間)硫黄温
泉で疲れを洗い流すことが出来たのが、何よりの至福であった。
<ビスターレの国であるが、取り組みが「風」の如く速やかであった>
サツマイモのプロジェクトは、ティルク村のユースクラブが全力で取り組むことになった。というのも、豚の
飼育を希望する青年9人が、豚の成長にサツマイモの栄養が欠かせないことをそれなりに了解したからであ
る。
昨年、一昨年とサツマイモの苗床を作るために、牛の糞と乏しい堆肥をせっせと持ち寄っていたのに、
今年は何度持ってくるようにと促しても、誰も持ってくる気配がない。仕方なくあるものでやるしかない。しか
し、発行する素材がないのに、苗床の温度が上がるわけがない。2度、3度とやり直さざるを得なかった。
後で聞いたところ、乏しい肥料は大半畑に使ってしまい、持って来たくても物がなかったとのこと。肥料の
本当に乏しいところである。環境に応じた方法を考えない限り、教科書どおりにやろうとしても、所詮無理な
話である。
今年は、飛行機のストライキで、村での滞在が減り、肥料事情の悪さがここまでひどいとは理解していな
かったので、別の方法を提案したり実行する時間がなかった。
�来年は、秋に少ない落葉樹ではあるが、山の落ち葉を集められる限り集め、堆肥置き場(苗床)に山積
みにしておくように指示した。
�同時に、万が一のために、ビニールのトンネルを柳の枝で作り、地温を上げることも伝えてきた。
今年は十分に温度が上がらず、発芽が遅れるかもしれない。それをカバーする手は打っていく予定である。
日本から技術者派遣をすることは困難なので、知り合いのネパール人に依頼することができた。移植時に、
肥料を作り、畝を作り、移植方法を一通り教えてもらうことにした。
昨年のサツマイモの収穫は、8キログラム。期待していたよりは遥かに少なかったが、ともかく収穫できた
ことが目出度い。というのも、9月までは気候もそれなりに順調で、大きく育っていたが、これから澱粉を蓄
える10月に、気候が寒く、雨交じりで日照時間も極めて少なかったので、9月までの芋が日々腐りだし、
11月霜の降りる直前の収穫時には大半が腐り、8キロの収穫にとどまった。
しかも、寒さに弱いサツマイモを保存するためにいろいろ考えた末に、ジャガイモと同じように背丈ぐらいの
穴を掘ることを指示したのに、50センチにも満たない穴の中に、泥混じり状態で埋めてあった。無残なもの
である。8本以外すべて腐っていた。自前の種芋は8本。あとの60本は、ダマウリ(是松さん)から頂いた種
芋である。
来年こそ自前の種芋だけで、苗床を作れるようにしたい。そのために、移植の時には、何としてでもネパ
ール人技術者に挽回して貰いたいと、過分な期待をしている。来年の対策も大切であるが、今年の作付けを
何としてでも実らせたいと、ネパール人技術者頼みである。実れサガルカンダ!
(清沢)